日米安保改定60年
「米国言いなり」の根源
2020年6月22日【3面】
沖縄・辺野古新基地建設の強行、陸上イージスをはじめとした米国製武器の爆買い、一方的な譲歩が際立つ日米貿易交渉、憲法9条の改悪=「米国とともに海外で戦争できる国」づくり―。安倍政権の下、「アメリカ言いなり」政治の害悪が際立っています。こうした、「アメリカ言いなり」政治の根源にある日米安保条約が批准されてから、23日で60年を迎えます。今こそ「安保の是非」「安保に代わる選択肢」をめぐる国民的な議論が求められています。(石黒みずほ、竹下岳、柳沢哲哉)
「日米対等」の欺まん
米国は日本を対ソ連・中国やアジア侵略の足場とするため、日本の主権回復後も米軍(占領軍)の駐留継続を決定。その法的根拠が、1951年9月に締結された旧安保条約でした。占領軍の駐留継続―これが安保条約の最大の目的です。
同条約の下、米軍は日本全土に基地を置き、占領軍さながらの横暴なふるまいで、事故・犯罪などの被害が多発。住民ぐるみの「基地闘争」が全国に広がります。
こうした中、57年2月に発足した岸信介政権は「安保改定」を掲げ、「対等な日米関係」をけん伝。その「担保」として、核兵器の持ち込みなど「装備の重要な変更」や、日本から戦闘作戦に出撃する場合、「事前協議」を行うこととされました。ところが日米両政府は現行安保締結と同日の60年1月19日、核兵器を搭載した米艦船・航空機の寄港・通過を容認する「核密約」や、朝鮮半島への「自由出撃」容認など、多くの密約を締結したのです。
もう一つの担保は、米国の「対日防衛義務」の確保でしたが、安保条約5条で「日米共同作戦」態勢が確立され、自衛隊が米軍の戦争に動員される危険が逆に高まりました。一方、日本を、ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク・アフガニスタンでの「対テロ」戦争など、「日本防衛」とは無縁の、地球規模での作戦の足場として利用してきました。
さらに、基地の排他的管理権や米側に有利な刑事裁判権などが盛り込まれた日米地位協定は、占領軍としての米軍の特権をそのまま踏襲しています。地位協定に実効性をもたらすため、膨大な国内法が整備され、「安保法体系」を形成。また、日米合同委員会の下、新たな密約が再生産され、安保体制は今日も膨張を続けています(表)。こうした構造全体を検証し、不当性を告発する必要があります。
結局、岸政権による「安保改定」は、「対等な日米関係」どころか、米軍の占領特権を維持し、日本が再び、米軍とともに海外での戦争に踏み出す危険をもたらしたのです。
「安保の是非」今こそ
今日、各種世論調査ではおおむね7~8割が日米安保条約を評価・肯定すると回答しています。しかし、国民は決して無条件に安保体制を支持しているわけではありません。
実際、2018年に全国知事会が決議するなど、日米地位協定の抜本的改定を求める世論は、かつてなく高まっています。沖縄県では、辺野古新基地反対の「オール沖縄」の流れが確固としたものとなり、日米同盟に打撃を与えています。
また、NHKが10年に行った世論調査では、「これからの安全保障体制」として、「アジアの多くの国々との関係を軸に、国際的な安全保障体制を築いていく」が55・2%で、「日米同盟を基軸に日本の安全を守る」の18・9%を大きく上回りました。冷戦時代の遺物である軍事同盟網が衰退する中、国民は新たな安全保障の枠組みを模索しています。
さらに、法外な米軍駐留経費の負担を要求し、「いやなら日本から撤退する」と“恫喝(どうかつ)”するトランプ政権の下、思考停止から脱却し、「安保の是非」をめぐる議論は不可避といえます。
平和守る声 道埋め尽くした 60年闘争
ストライキ、集会、デモ、署名、国会請願など多面的な行動が展開された60年安保闘争。全国で2000に及んだ地域共闘組織などが、1年半以上にわたって未曽有の規模で持続的なたたかいを繰り広げました。
戦争の足音に「黙らない」
「日本国民の一大政治闘争であり、世界史的にもまれにみる闘争だった」。当時、裁判所職員でつくる全司法労働組合(全司法)で闘争に参加した吉田博徳さん(99)=東京都=は振り返ります。
1959年4月の第1次統一行動以来、国会周辺には連日のように10万人を超える人々が集まり、声をあげました。これだけのたたかいの背景には「戦争に反対し、平和を守ることがあった」と吉田さんはいいます。
終戦からわずか15年の安保改定交渉。再び聞こえ始めた戦争への足音に対し、「黙っていられない」と、労働組合が中心のたたかいに未組織の市民が立ち上がりました。
1日閉店ストを行った商店主たち、むしろ旗をもった農民、芸術家や音楽家。市民が自発的にデモに参加しました。
「戦争体験者が多かった」という吉田さん。自身も、日本軍の第23師団の一員として満州のハイラルに。その後、大分陸軍少年飛行兵学校へ入るため、ハイラルを離れましたが、師団はフィリピンへ向かう途中、米軍の魚雷攻撃を受けて船が沈没。「仲間たちは今も東シナ海に沈んだまま」です。
吉田さんは、あるエピソードを紹介します。広げた手をつなぎ道幅いっぱいに歩くフランス式デモです。道路を埋め尽くしたため電車もバスもタクシーも通れません。しかし乗客は抗議しません。「戦争反対の声を支持していたからだよ」
国民の支持のもと、空前の規模で運動は盛り上がっていきます。国民会議がおこなった政治的ストライキは、60年6月4日560万人、15日580万人、22日600万人にものぼりました。
現在につながるたたかい
あかつき印刷に勤務し、激しい弾圧を乗り越え、「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)の復刊第1号の制作にも携わった松本進さん(89)=東京都=は、職場の仲間たちと毎日のように国会デモに参加しました。「とにかくすごい熱気だった。何とかしたい、アメリカの自由にされたくないという気持ちで。若さを爆発させていた」
日比谷公園、銀座、有楽町、二重橋。けた違いのデモの人数に対し、警官も手を出せず、GHQ(連合国軍総司令部)のアメリカ人守衛も、「デモ隊の多さに恐れ顔色が変わっていた」と話します。
「安保闘争は今にもつながる。沖縄でのたたかいもそうですが、勝利のないたたかいはない。必ず勝利はある。安保条約とは何かということを幅広い人たちと共有し、まとまることができれば安保条約廃棄への道に向かうことができる」
(しんぶん赤旗 2020/6/22より)